紙ピアノという歌集のこと
『紙ピアノ』 伊津野重美(短歌)・岡田敦(写真)/風媒社
未来彗星集の先輩のブログを見て、歌集・『紙ピアノ』を読んだ。
45分車検の待ち時間に気軽に読み始めたのだが、すぐに後悔した。
・・・なんでよりによってこの本を、このざわついた場所で読んでいるのだろう。
しかしぐいぐい惹き込まれてゆくので、やめることもできない。
こわれるから目をとじました 会うことも会わないこともとおいゆうぐれ
髪洗うまなうらの闇むらむらと桜が沸きて沸きては崩るる
この2首、ともに目を閉じているのである。
ゆうぐれも桜もすべてこころの中で見ているのである。
なぜそうしたのか、あるいはそうしないといけなかったのか、
あとがきにこう書いてあった。
「短歌を提示する一手段として朗読の活動を続けてゆくうちに、不思議なことに気付いた。それは、朗読に来てくださっている人はただ聞くだけではなく、どうも私を見たいらしいということだった。届けるためには全身で祈りにならなければならないと思っていた私は、いつのまにか短歌と声と身体が一つになって、私の世界を表現する媒体となっていたのである。」(あとがき―マナの日々から)
そうか、「全身で祈りになって」いる歌なのだ。悲しいとかせつないなどの形容詞で単純に分類できる感情ではなく、作者の世界そのものが祈りとなって伝わるのだ。それは私のなかにあった、体内の深いところにかくしていた、人に触れられたくない部分を刺激した。
素直に詠めばいい。この本はそう教えてくれたように思う。
美しい歌集だが、どこにも飾り気がない。
おそろしいほどストレートな歌もあるが、過剰ではない。
それは嘘がないからだと思う。
自分に嘘をついていないのだ。
そして作者そのものが詩であり、歌になっているのだと思う。
写真とのコラボも美しい。私はあまり写真と短歌のコラボレーションを好まないのだが、この歌集では祈りの一部として写真が息づいていると思った。
最後に好きな歌をいくつか
わたしにはなんにもなくてわたしにはこわいくらいになんにもなくて
走り来る子供等も凶器萎え果てた我に激しく突き当たる時
たった一人の母を許せずたった一人の母を憎めず堕ちてゆく 闇
人去りし室には埃きららかに私に床に均しく降りぬ
三月後の己が生命を危ぶむ者は春を信じて秋に種播く
何ものも残さず死んでしまうことおそろし過ぎてぴかぴか笑う
うすべにがうれしいのです一心に蘂降り注ぐ道のやさしさ
『紙ピアノ』には愛があふれている。
伊津野重美は愛されたいと願い、自らの愛をあふれさせている。
彼女の朗読を聴きにいきたいと思った。
伊津野重美さんのサイトはこちら
http://homepage2.nifty.com/paperpiano/
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